萩野亮 / hagino ryo
『サスペリア』(2018)は基礎工事を怠って瓦解した因果応報の建築である。
更新日:2019年2月16日

すげー期待していた。いや、海外ふくめ一部の批評家筋からずば抜けて評判がよいらしいことは知らなかったし(というかこのところの映画情勢をまるで把握していない)、とくに原作者であるダリオ・アルジェントやルチオ・フルチなど、往年のイタリアンホラーの愛好家でもないのだけど、試写状がかっこよかった。これは大事である。わたしのような末端の批評書き、しかも半年はたらいて一年半休む、というような不本意不定期労働者の筆者でさえも、配給・宣伝各社より試写状を毎日のように送っていただいている。ほんとうにありがたい。
そう、試写状。ようはチラシを葉書大にしたものだが、何十枚、何百枚とこれに目を通していると、だいたいどんな作品で、配給会社がどれくらいの「本気度」でもってその作品を送り出そうとしているのかは、なんとなくわかるものである。『サスペリア』のそれには、GAGAさんのかなり前のめりな本気度合いを感じた。これは駆けつけなくてはいけない……!
で、見た。ひと言でいうと、まったく期待はずれだった。すべてが空回りしているというか、ガウディのような壮麗かつグロテスクな大建築を打ちたてようとしているのだが、そもそも基礎工事を怠っている。もったいないというか、文字通りの台なしである。
新興国アメリカからベルリンのカンパニーにやってきた天才ダンサーのダコタ・ジョンソンが、いまは現役を退いて指導者になったいまひとりの天才たるティルダ・スウィントンに見初められて主役を勝ちえてゆく、その古典的な「スタア誕生」物語がまず描けていない。下手すぎる。ダイアの原石と、その燦めきにいちはやく気づいた指導者の関係など、ほとんどワンショットで描けるはずの事態ではないか。はじめて主人公のダンスにふれたティルダのおどろきにみちた表情を、それらしく挿入すればよい。 そしてみずからを凌駕するその才能に気づき、嫉妬をかくせないがゆえに、あえてはじめはぶっきらぼうに接してみせるなどするーー(この監督は、たとえば『ミリオンダラー・ベイビー』を、あるいは『セッション』でもなんでもよいが、ちゃんと見たのだろうか)。しかしついにそのようなショットはない。なかったはずだ。とてもあいまいな感じであのシーンは終わったはずで、彼女が歓迎されているのかどうかもさだかではなかった。
まずこのふたりの、吉本隆明なら対幻想とよんだかもしれない関係のエロスを、とことん描きつくすことからしかこの映画の構想=建築は実現しなかったはずである。あるいは、カンパニーに属するほかのダンサーたちの印象のなさはどうしたものか。脇役だからといって、あまりにもぞんざいにあつかわれてはいないか。コンテンポラリーダンスのカンパニーという基本的には閉鎖的とみなされてしかるべき組織のなかに、ひとりのアメリカ人がずうずうしく入りこんできては、主役をかっさらってしまう、そのことに対する反発、妬み、嫉み、首脳陣への苛立ち、and so on が描かれて当然ではないか。少なくとも、こうした古典的物語の鋳型でやるかぎりはそうである。しかし、まったくそういうシーンはない。
だからこそ、後半にカギを握ってくるいまひとりのダンサーであり、主人公にもっとも近しい人物として一応描かれるミア・ゴスの存在もぼんやりとしている。周囲の反発、排除、迫害のなかで、主人公が唯一こころをゆるせる仲間としてミアは描かれなくてはならないのに、ほかのダンサーたちとの温度差がまるでない。これはもう脚本に難があるし、単純にストーリーテリングが下手だというしかない。
映画の基礎は、人物と人物の関係、または心的距離の推移にあり、それをいかに画面=フレームにおいて表現するかにある(それはドキュメンタリーでも変わらない)。そうした基礎工事をないがしろにしては、建築はむなしく瓦解するほかない。
ところで監督のルカ・グァダニーノは、前作『君の名前で僕を呼んで』でも、ユダヤ系の有産階級の家族にひとりの遠慮のないアメリカ人をまぎれこませるという、『サスペリア』と同様の物語を描いているわけだが、あの作品は少なくとも下手ではなかった。むしろ前半部分はけっこうよかった。とりわけ、主人公のティモシー・シャラメが戯れにバッハを弾いてみせるシーン。ラベル風だのなんだの(うろおぼえです)と、ピアノで勝手なアレンジを楽しんでいるかれの背後に、それを耳にしたアーミー・ハマーがあらわれる。ピアノの音色に聞き入りながら、そうじゃなくてさっきみたいに弾いてくれよ、とかれはリクエストするが、主人公は聞く耳をもたない。アメリカ人風のオーバーなアクションであきれて立ち去るアーミー。それを視線の隅に感じた主人公は、リクエスト通りに初期バッハ風の格調高い音色を鍵盤から奏ではじめる、すると、それだよ! とアーミーが画面に帰ってくるーーこのワンショットはまことにすばらしい。あるいは、公園かどこかの銅像のぐるりを左と右にわかれて半周し、再び落ち合うシーンもみごとというほかない。
『君の名前で僕を呼んで』を見るかぎり、この監督は画面に人物を配置することに長けているといってよい。そして人物と人物の心的な距離を、画面上の即物的な距離において描くことのできる監督であることがわかる。ちゃんと「基礎工事」のできる業者、いや監督なのである。ただ、この作品にかぎらず、ルカ・グァダニーノの映画はどれも長い。『君の名前で』など、はっきりいってふたりが結ばれたあとの45分くらいはまったく要らない。夜、別離、アプリコットの穴、で終わっていればなかなかの佳品だったのに。
大いに脱線するが、映画監督には、それぞれにふさわしい適切な上映時間というものがあると思う。それは、たとえば競走馬に適距離があるのと同じである。クリント・イーストウッドの映画がおおむね100分以内におさまることはよく知られているが、それはかれが自分にとっての適切な長さをよく知っているからだ。あるいは逆に、「スローシネマ」などとよばれもする映画の作家たち、たとえばラヴ・ディアスやワン・ビンなどは、本質的に180分かともすれば240分以上の作家なのであり、かれらももちろんそのことを知悉している。さかのぼるなら、リュミエールは正確に60秒の映画作家だったといってよい。
もちろん映画というのは商品でもあるから、現代において腕が良いと見なされた監督は、否が応でも120分か135分の映画を「撮らされて」しまう。このことが不幸を生んでいるように思われてならない。スプリンターのサクラバクシンオーが3000Mの阪神大賞典を走らされるようなものである。
で、ルカ・グァダニーノは、全部の作品を見たわけではないけれど、本質的には90分の監督ではないか。『サスペリア』も長すぎる。本質より長い映画を撮ってしまう監督にはおそらく二種類いて、ワンシーンワンシーンが長くなってしまうタイプ(たいていは不要な心理描写に費やしている)と、まるごと要らないシーンがあるタイプのふたつであるが、この監督の場合、すでに書いた通り『君の名前で』は明らかに後者だが、『サスペリア』はどっちの症状もあるような気がする。
こうした致命的欠陥を露呈してなお、こころをつかまれずにはいられないショットがあるのなら、わたしもこの映画を死にものぐるいで擁護したかもしれない。けれど、わたしがいいぞ! と快哉をさけんだのは正確に一箇所だけだった。映画が序盤から中盤へとさしかかろうとするころだったろうか、最初の被害者になる少女の瞳からわけもわからず涙があふれはじめる、その瞬間にほかのある少女もわっと号泣する、その不可思議なシンクロ、切れ味のあるカットバック。そこだけがよかった。もうひとつあげるなら(あげるのかよ)、俳優たちはそれぞれによかった。とりわけグァダニーノのミューズというべきティルダ・スウィントンが群を抜いて良い。
全体を通して速いカット、急なズームイン、意味深なインサートショット、といったかつてのプログラムピクチャーのようなケレン味のある演出をしようとしているのだが、ぜんぶが記号的に見えた。手法だけではない。ナチズムに東西分断、ドイツ赤軍といかにもカルト映画通が好みそうなモチーフをふんだんにちりばめているが、いまやすべてがむなしいよ。
サスペリア
監督:ルカ・グァダニーノ
原題:Suspiria
イタリア=アメリカ/2018年/152分
2019年1月25日公開