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  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

『ビール・ストリートの恋人たち』が垣間見せるこの監督の高潔さはほんものだと信じたい。


(C)2018 ANNAPURNA PICTURES, LLC. All Rights Reserved.

いつも前置きが長すぎることをもちろん自覚しているので、今回はさっそく本題から。いや、ちょっと面食らった。バリー・ジェンキンス監督の前作『ムーンライト』とはまるでつくりが違う。


前作は一言でいうなら「省略の映画」であり、きわめて大胆な、そして息を呑むような美しい省略が一本の映画をささえていた。けれども『ビール・ストリートの恋人たち』にはまったくそうしたものがない。


もちろん、お話が描いている時間の「幅」がまず違うわけだが、そういうレベルではない。本来なら脚本の段階で削除されてしかるべきシーン、たとえば主人公の母親のレジーナ・キングがプエルトリコへとおもむく一連の、彼女が意を決した夜に鏡台に向かって鬘(かつら)をかぶりおもむろに髪をといては、やっぱり違うとその鬘をはずす、そこまでがあますことなく描写されている。あるいはそのレジーナのカリブ行きの資金をつくるために、ふたりの主人公の父親が波止場で盗みをはたらくそのさまが、いまどきめずらしいスプリット・スクリーン(分割画面)で律儀に描かれもする。


はっきりいって、要らないシーンである。せりふで済ませてしまえばよい。しかし、バリー・ジェンキンスはそうしなかった(脚本も彼が書いている)。この映画の、この冗長さはいったい何なのか。同じ作者が『ムーンライト』という映画を撮っているゆえ、いっそう「この省略のなさ」が際立ってしかたがない。そこには、この監督にとってきわめて重要なものが込められているように思われてならないのである。

 


『ムーンライト』は「省略の映画」だと書いた。このことに異論を唱える向きはとりあえずないだろう。主人公の少年期、青年期、壮年期にそれぞれ一章を割いた三部構成において、おそらくは30年ほどの時間が物語のなかで流れている。ひとりの人物の成長過程を年齢の異なる三人の俳優が演じる、という映画的な約束ごとにもとづいてこの映画は展開するわけだが、これら章と章の「あいだ」は一切が省略されている。


その省略がもっとも際立っているのは、いうまでもなく青年期と壮年期との「あいだ」であるだろう。少年時代に「リトル」とよばれるほどに小さく華奢だった主人公は、まるでそれまでの人生を否定するように身体を鍛えあげ、上下の歯をけばけばしく金で光らせている。幼いころにメシを喰わせ、自分をやさしく保護してくれたあの大柄な男に、まるでかれはなろうとしていた。


よるべない主人公のこの飛躍、この断絶を、『ムーンライト』はいっさい説明しない。もちろん、第二章の結末で描かれたとおり、学生時代に暴力をはたらいて少年院に入り、そこからクスリの売人になってのしあがったことはせりふでしめされる。けれども、脚本にしてわずか二行ほどのその「説明」が、かれのこの変貌ぶりを説得し尽くせているとはとうてい思えない。それは、『ビール・ストリートの恋人たち』のあの過剰な説明ぶりとは大きく異なるものだ。


ところで、『ムーンライト』というフィルムは、タイトルにしめされている通り、「光」についての映画でもあった。かつて撮影監督として『サウンダー』(72)や『ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実』(同)という、たいはんのキャストを黒人とする映画を撮ったジョン・アロンゾは、インタビューに答えてこう云っている。


皮膚に黒い要素をもつ人や黒人を撮影する時には興味深い一面があるね。例えば、ダイアナ・ロスの皮膚には、何かチョコレート色っぽい性質があり、シシリー・タイスンのにはわずかながら青っぽいものがある。〔…〕
黒人はすべて、ある特定の色合いを反射するというのは事実なんだ。フィルムは青色にはきわめて敏感なので、青色は本当は俳優の顔に当てたくない色なのだ。照明をあれこれいじってみて、白人の場合と同じようにベストの容貌を引き立たせることが、黒人の照明という課題にとりくむ方法だね。 (高間・宮本訳『マスターズ・オブ・ライト』)

当然のことながら、ひとくちに「黒人」と云っても、その肌の色には無限の諧調がある。それはもちろん「白人」や「黄色人種」の場合と同じである。けれども、こと「光」に対する反応のバラエティでいうなら、「黒人」ほど機微に富んだものはないのかもしれない。アロンゾのインタビューはそう云っている。そして『ムーンライト』という映画は、まさしく主人公の肌にさまざまな光を当て、さまざまな色を反射させるフィルムだった。そうしてひとりの人物を、さまざまな光と色で理解しようとする。


『ムーンライト』の結末はきわめて美しい。かよわさや繊細さを棄てて、裏社会を取り仕切る無骨な売人に成りあがった主人公が、親友とよんでよい唯一の友と一度だけ過ごしたあの月明かりの砂浜のできごと以来、だれとも関係をもたなかったことを大人になったかれに静かに告げる、アパートメントの夜。そこに凝縮される行き場のない主人公の生=性。章と章のはざまに、『ムーンライト』はいったい何を「省略」していたのか。それは主人公が棄てきれなかった貞潔さではないのか。


『ムーンライト』の主人公の貞潔は、そのままこのフィルムの貞潔さを、そして作者であるバリー・ジェンキンスの貞潔さを、明かそうとするかのようである。そしてそのことは、新作『ビール・ストリートの恋人たち』において、いっそう明らかになったのではないか。

 


『ビール・ストリートの恋人たち』は、はっきりいってすぐれた映画ではないと思う。長篇処女作とはとうてい思えない前作の洗練された構成からすれば、二歩か三歩後退しているとすら思える(脚本執筆は『ビール・ストリート』のほうが先だったという)。


前作にもそのきらいは多分にあったが、何より人物の単純化がはなはだしい。無実の罪で投獄された青年と、かれの妻になろうとする少女。ふたりは深くふかく愛しあっている。それを応援する少女の母、父、姉。青年側の父も協力的だが、母と妹は反対している。古典的なメロドラマというか、ほとんどソープオペラ(昼ドラ)を地でいく感じであり、両家の家族がそろう序盤のシーンなど、この映画は大丈夫か、と目を覆いたくなるありさまだったが、何のことはなくその後もその調子でエンドマークまで完走する。


愛が何度も叫ばれる。無実が何度も叫ばれる。


ふつうなら辟易するところである。とくにわたしは愛などまったく信じていない。ところが、ある時点から、これはほんものなのではないか、とわたしは思うようになった。この監督が描く「愛」には、まったく疑いも恥じらいもてらいも感じられない。青年の無実を証明するために少女の母はプエルトリコへ飛び、父はカネをつくるために悪へと奔走する、それはふたりの愛のためだ。わたしはこのふたつのシーンを要らないと書いた。しかし、バリー・ジェンキンスにとっては絶対に必要なシーンだったのである。それはふたりの愛の深さを知る周囲の人間たちの尽きせぬ労力を描くことによって、夫婦になろうとするつつましいカップルのあいだにある愛のたしかさをいっそう明らかにするためである。


この愛を信じて疑わない映画の手ざわりには、どこかで見たようなおぼえがあった。半日ほど経って、ようやくひとりの映画作家の名前に思い当たった。ヤスミン・アフマドである。


多民族・他宗教国家のインドネシアで、人種も信教も超えてつながり、愛しあおうとする者たちを描きつづけた彼女のメロドラマ映画、たとえば『タイムタイム』を、『ムクシン』を、わたしは想起した。ヤスミン・アフマドの映画も、まったく愛にたいして疑いや恥じらいやてらいがなかった。こんなにも美しい魂があるのかと、彼女の映画を見るたびにわたしは泣き、感嘆し、そして泣いた。ヤスミン・アフマドはほんものの気高さをもっていた。


バリー・ジェンキンスというこの合衆国の新人監督にも、わたしはどこか似たような精神の高潔さの手ざわりを感じる。『ビール・ストリートの恋人たち』は決してすぐれた映画ではないと思うけど、わたしはこの監督を「ほんもの」だと信じてみたい。


 



ビール・ストリートの恋人たち


監督・脚本 バリー・ジェンキンス

原作 ジェイムズ・ボールドウィン『ビール・ストリートの恋人たち』

原題 If Beale Street Could Talk

提供 バップ 配給 ロングライド

2018年|アメリカ|119分


2019年2月22日公開

https://longride.jp/bealestreet/


#バリー・ジェンキンス #ヤスミン・アフマド #ジョン・アロンゾ


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