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  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

『眠る村』が描く「名張毒ぶどう酒事件」はわたしが育ったすぐそばの集落で起きた。

更新日:2019年2月16日



(c)東海テレビ放送

名張毒ぶどう酒事件について知ったのは、いくつのときだったろうか。


昭和36年、もう50年以上も前のできごとである。通常ならば昭和史のいち事件として登録され、とうに忘れさられてもふしぎではない年月が経過している。けれども、この事件はいまだにある生なましさとともに語られるしかない。それは、戦後のこの国において、この事件が無罪から極刑へと判決の転じた唯一のケースだからであり、再審請求のあいつぐ棄却のさなかに死刑囚・奥西勝が獄死してしまったからである。とうてい「終わった」とはいえない。


司法がひそかに、いや如実に望んでいた結末だろう。40年以上の長きにわたって、刑を執行することもなければ、かといって再審請求を呑むわけでもない。かぎりなく白に近いグレーであることを知りながら、その灰色の時間のなかで、とにかく獄中でかれが亡くなるのを待っていた。そうとしか思えない。


これはもちろん、わたしの意見である。少なくとも東海テレビがこれまでに制作したいくつものドキュメンタリーを見るかぎり、わたしはそういう結論しか出すことができない。

 


事件のあらましをごくかんたんに整理しておく。

名張毒ぶどう酒事件、または名張事件は、昭和36年3月28日夜、三重県名張市葛尾の公民館で起きた。葛尾集落は三重と奈良の山間部の県境をまたいで在り、それぞれ南葛尾・北葛尾とよばれている。その夜、公民館では北と南それぞれの村人が懇親会に集った。そしてそこでふるまわれたぶどう酒を口にした17人の女性が毒物による中毒症状を起こし、うち5人が死亡した。


被疑者として逮捕、のちに起訴されたのは、懇親会に参加していた奥西勝(当時35歳)。妻と愛人との三角関係を清算したいという思いから、ぶどう酒に農薬を混入させたと自白した。物証(酒瓶の王冠)と自白との矛盾から、一審は無罪。しかし、控訴審では奥西の自白を重視し、一転して死刑判決がくだされる。上告は棄却され、死刑判決が確定するーー。

 


わたしは三重県名張市の出身である。ときおりプロフィールを「○○生れ」と記してほしいともとめられて、「奈良県生れ」と書くこともあるが、それももちろん嘘ではない。母によれば、わたしは奈良県北葛城郡で生れて、二歳のころ名張に越してきた。わたしの記憶は名張からはじまっているから、出身は、と問われれば、やはり名張だとこたえる。


『眠る村』でもすこしだけふれられているが、名張という町は、京阪からお伊勢さんへ参る道中の宿場町として栄え、戦後は70年代以降、おもに大阪方面へのベッドタウンとして人口を増加させた典型的な「郊外」である。山は切り拓かれて住宅地となり、つぎつぎに「〜が丘」という地名がうまれていった。「つつじヶ丘」や「梅ヶ丘」「百合ヶ丘」といった地名は、「〜が丘」の表記で名張にもある(たぶん全国のどこかしこにある)。


両親が幼い姉とわたしを連れて名張へやってきたのは昭和59年。ぶどう酒事件の発生からは20年あまりが経っていることになる。母に当時のことを訊いてみた。


ーー名張に越してきたころ、毒ぶどう酒事件のことってなんか聞いたりした? おかん「そんなんぜんぜん知らんかったわ。あとでテレビで知って、名張でそんなことあったんやなあって」 ーー地元の人からなんか聞いたりもせんかった? おかん「うん。もう当時はみんな大阪から来た人ばっかりやったから」 ーー葛尾っていう集落は知ってた? おかん「ぜんぜん知らんかったわ」 ーーいまでいうたら、梅が丘の裏あたりやな。 おかん「そうみたいやな」

すでに書いたとおり、名張市は急速に郊外化していった町である。昭和59(1984)年当時のおもな人口を構成していたのは、すでにわたしたちのような、大阪方面から来た者たちだったのではないか。いわば宅地造成された地層の下に、すでに「事件」はすっかり埋もれていた。


「葛尾」という集落を、わたしも知らなかった。今度の映画を見て、地図でしめされるともちろん、ああ、あのあたり(梅が丘の裏手)か、と見当をつけることはできる。けれど、自分の知っている風景とはまるで地続きになってくれない。それが奇妙な感覚だった。


映画で知られるとおり、相当に辺鄙なところである。おそらく市街地へ出るためには車で数十分は移動しなければならないだろう。いまでさえそうなのだから、昭和30年代の当時など、完全に隔絶した閉域だったことは容易に看てとれる。そこでは、都市に暮らす現代のわたしたちが想像もおよばないほど鬱蒼とした人間と人間の関係があったに違いない。

 


『眠る村』は、ひょっとすると東海テレビ放送にとって、「名張事件」をあつかった最後のドキュメンタリーになるのではないか。もちろん、真相が明らかでない以上、まだ事件は終わってはいない。元死刑囚として死んだ奥西勝の名誉回復のための闘いは、まだまだつづいてゆく。しかし、亡くなったのは奥西だけではない。事件解明の重要なカギをにぎるだろう集落の人間たちもまた、つぎつぎに亡くなっているのである。この映画は、当時を知るいまは老年に達した村人たちに、おそらく「最後の取材」をこころみている。いまかれらに話を聞き出せなければ、もう次はないだろうーー。そういった緊迫した感じがある。


監督として取材を進めるのは、この事件の担当を引き継いだ東海テレビのベテラン齊藤潤一と、うら若い鎌田麗香のコンビである。この女性ディレクターは、プロデューサーの阿武野勝彦によって、ほとんど「最後の切り札」のように起用されている。彼女は、あたかも「無知な若者」をよそおって、カメラとともに「生き証人」である老人たちに近づいてゆく。


ーーほんとうに奥西さんがやったと思いますか?


出しぬけに彼女は問う。畑仕事などをしている村民たちは、またカメラか、とうんざりしたような感じで顔を背けつつ、おそらく一瞬、ぎょっとした。


けれど、かれらはもう、なにかを知っていたところで、それを墓までもってゆくことはどうやら肚に決めている。不意打ちのような質問に対し、わからんよ、などとあいまいに茶を濁すばかりだ。


だれもが想定内の反応である。大事なのはそのあとだ。しかし、鎌田ディレクターは「次の質問」をまったく用意していない。そんなことでは、かれらがなにかを語るはずがない。もちろん「取材」というもののむずかしさ(とりわけ今回のようなケースの)は、わたしも承知しているつもりである。けれど、このたびの手口はかなり安易ではないか。出しぬけに問いつつ、なお真摯に、そして粘りづよく訊く=聞く姿勢があって、はじめてかれらは最後になにかを語ったかもしれなかった。


想像をたくましくすると、この「無知な若者をよそおう」という彼女の手法が、東海テレビの先輩ディレクターである圡方宏史の『ヤクザと憲法』からまなんだとすれば、これはなお深刻な事態である。『ヤクザと憲法』は、一般人のうかがいしれないヤクザの世界に踏み込んだ圡方ディレクターたちの、ほとんどイノセントなおどろき「のみ」で撮られた作品であり、「ヤクザの人権」というテーマをいかにもそれらしく提示してみせただけのものだった。ほんとうは、「そこから」がスタートだったはずである。『ヤクザと憲法』もまた、いわば「次の質問」を欠いた作品だったといわざるをえない。

 


『眠る村』は、ふたつの沈黙を往復する映画である。ひとつは、黙して語らずをつらぬき通す、集落の老翁たちの沈黙であり、いまひとつは、再審請求を受けつけない司法の沈黙である。そのはざまで声をあげつづけるのは弁護団であり、かれらに声を託した獄中の奥西勝である。カメラはふたつの沈黙とひとつの叫びを記録しつづける。


この解決しがたい声の落差は、冒頭から結末まで変わらない。映画はその「変わらなさ」をメランコリックな音楽とともに提示するだけだ。この「あいだ」に立とうとする者の真摯さは、齊藤潤一監督の劇場公開第一作である『平成ジレンマ』にもあったものだとふと想起する。


わたしは東海テレビの劇場版ドキュメンタリーのシリーズでは、戸塚ヨットスクールと戸塚宏に取材したこの『平成ジレンマ』がもっとも成功していると思う。「体罰主義者」として戸塚宏を叩きつづけるマスメディアの一面的な報道への自己批判を強烈に内に含みながら、齊藤監督はどうにか戸塚の側に立とうとしていた。それはたとえば、マスコミ対応をせまられるかれの「背中」を映し出すことによって、あやうく表明されている。もちろんかれを全面的に擁護はできない。しかし、他ならず自身が属するマスコミの側にも与したくはないーー。


なによりわかりやすさが、そして「不偏不党」の思想らしきものが重視されるテレビ表現において、あいまいな立場を通すかれのドキュメンタリーには信じられる誠実さがある。だからこそ、このたびの共同監督作である『眠る村』には、正直にいってすこしばかり落胆させられたのである。


 


眠る村


監督:齊藤潤一 鎌田麗香

ナレーション:仲代達矢

2018年/日本/96分/ドキュメンタリー

配給・製作:東海テレビ放送 配給協力:東風


2019年2月2日(土)公開

http://www.nemuru-mura.com/


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