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  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

『がんになる前に知っておくこと』を見て知ったこと。

更新日:2019年2月16日


(C)2018 uehara-shouten

『31歳ガン漂流』(ポプラ文庫)という本がある。著者は奥山貴宏。かれはもうこの世にいない。この本の原著が刊行されたのは2003年のことだ。


わたしはこの本が長年気になっていた。この本だけじゃない。かれが遺したすべての本と、かれ自身のことがなんとなく気にかかっていた。それならかれの本を買いもとめて読めばよい。それだけのことが、どうしてかできなかった。


それにはすこしだけ変な理由がある。あれはわたしがまだ東京に出てきたばかりのころだったろうか。とすればまさしく2003年のことだ。まだ関西にいたころに大阪で知り合った「イカワ君」という知人が、東京に来るというから久しぶりに会うことになった。そのときにイカワ君は、いつもの神戸なまりで奥山貴宏のことをわたしに語った。テレビのドキュメンタリー番組で、ガンで余命2年と宣告され、闘病中だったかれのことを知ったのだという。


イカワ君はいった、「その奥山っていう人、文章を書いてる人やねんけどな、顔の感じとか話し方がな、なんかハギノ君そっくりやねん」。


わたしは笑ったと思う。俄然「その奥山っていう人」のことが気になった。奥山貴宏が肺がんで早逝したのは2005年(享年33)のことだから、当時はまだ存命だったことになる。イカワ君はつづけた、「せやから俺、なんかハギノ君もすぐ死ぬんちゃうかなって思って(笑)」。


当時わたしは、将来自分が物書きになるとは思っていなかった。田舎でフリーターをしながら小説を書くなどしていたが、どうもうまくゆかず、なんとなく大学に行ってみようと思って、21のときに上京したのだった。25で卒業して映画評を書き始めたとき、自分が「奥山貴宏」のほうへ近づいていっているような気がふいにした。だからなんとなくかれの本を読むのがこわかった。それはべつに、自分もかれのように早死にしてしまうのではないか、という恐怖ではまったくなくて、「自分にそっくり」だという人物の書いたものに接することの、ことばにしがたい薄気味わるさのほうだった。


そうしていつしか自分も「がん」ではないが、厄介な病気になってしまい、ふと奥山さんの本のことがまた思い出された。それでようやく『31歳ガン漂流』を手に取った。だけど、最後まで読めなかった。本そのものはべらぼうに面白い。すぐれた病床文学だと思う。けれど、かれの死まで直線的につづいてゆくその記述を、まだ読みきる勇気がない。

 


前置きのつもりが、長くなってしまった。


わたしは「がん」にはならないーー。わたしたちはなぜかそう信じてしまっているところがある。日本人のふたりにひとりが「がん」になる、という話はいまやだれもが知っている。けれど、自分だけはがんにならない、ならないはずだ、とどこかで思っている。わたしもそうである。正直にいえばこの映画を見終えたあとでも、やっぱり避けがたくそう信じてしまっている。この「がん」という病いに対する強固な思い込みは、いったいどこから来るのか。


それは、ある程度はイメージの所産に違いない。がん=突然の宣告、過酷な闘病生活、避けられない死……。医師による突然の宣告に対して「こころの準備」をしておくためには、「自分はがんになるかもしれない」と思っておいたほうがむしろよいはずである。にもかかわらず、わたしたちがなお意識の外へと追いやってしまわずにはいられないのは、やはりこの病気への恐怖が根強いことと、もうひとつはキャンペーンの「逆効果」があったのではないか。


「ふたりにひとりがなる病気」というフレーズの、確率論にもとづく厚労省や保険会社などによるキャンペーンは、むしろ50%の確率で「自分はがんにならない」という保証をあたえてしまっていないだろうか。生活習慣病であるがんは、まさしく生活の習慣によって発病率が左右される病いであるはずだが、それをさしおいて単なる「50/50」の確率論に認識が矮小化されてしまうとすれば、がんにかかるかどうかは運の問題=考えてもしようがない問題として、かえってがんへの認識を退歩させているとさえいえるかもしれない。


インターネットの普及によって、健康についての情報はあふれかえっている。まさしく玉石混交であり、先端的な西洋医学に裏打ちされた最新の医療情報もあれば、オカルトめいた療法についてもっともらしく述べているサイトだってある。『がんになる前に知っておくこと』という映画は、2019年の現段階において信頼に足る情報を提供し、がんへのイメージを更新することを目的として撮られている。

 


たとえば「がん=死」というイメージは、医療の現場では30年前の認識だと、この映画で腫瘍内科医の勝俣範之教授はいう。ステージが進めば根治は依然としてむずかしいが、がんと「ともに生きてゆく」ことはできる。闘病と仕事を「両立」している人はいくらもいる。そのために、抗がん剤への副作用を軽減させる「緩和ケア」も日々進展しているという。


映画ではふれられていないが、そもそも「がん」とは、もともとわたしたちの体内にあった細胞が変異したものである。外部からやってきたものではない。「内なる他者」としてのがんと共存すること。これは現代社会においてとても重要な隠喩を帯びていると思う。


この映画がユニークなのは、数かずのインタビューによって西洋医学にもとづく最新の医療成果を伝えながら、その「限界」を同時に知らせてもいることである。後半にさしかかるにつれて、いわば「治療」から「ケア」へと、円を描くように映画は空間をひろげてゆく。


わたしがこころを打たれたのは、がんになった人が「ただ泣くための場所」があるということだった。医師よりがんの宣告を受けた人は、どうしたってショックにおちいる。そのまま家に帰って、たとえば家族にそれをうちあけることにためらいをおぼえない人などいない。そうしたときに、ふらっと立ちより、「ピア peer」と呼ばれるがん経験者に話を聞くなどしてもらいながら、ただ涙を流し、息をととのえる、そのために使ってよい場所がある。作中では、こうした「ピアサポート」を行なっている施設として、神奈川県の湘南記念病院や、認定NPO法人の「マギーズ東京」が紹介されている。


医学は病気を治療する、ないしは症状を緩和させる。しかし、よるべないこころのケアまではできない。「医学の限界」とものものしく書いたが、単に「持ち場の違い」だといいなおしてももちろんよい。がんになる前にわたしたちが知っておかなくてはならないこととは、単にがん治療の正しい知識だけではなく、つかの間涙を流す、そのためだけに立ちよってよい場所があるという事実の両方である。この映画はきっとそういっている。


肺がんで早すぎる死を死んだ奥山貴宏さんにも、この映画を見てほしかった。それも、かれががんになる前に。

 


いまさらながら、この映画にはナビゲーターがいる。乳がんのうたがいを受けた経験をもつ、俳優の鳴神綾香さんである。映画は彼女がインタビュアーをつとめ、15名の医療従事者やがん経験者に話を聞いてゆくことで構成されている。わたしはドキュメンタリーの批評をやっている人間なので、映画についてちょっとだけもどかしかった点を述べると、彼女ががんへの知識を深めてゆく、そのプロセスをもっと生なましく、見たかった思いがする。あくまで「がんについて詳しい知識をもたない若者」として、彼女は案内役をまかされる。そして観客と「ともに」がんについての知識を深めてゆく、そうした一連の時間としてこの映画は構想されていたはずである。


じっさい、彼女はこの映画を通じて多くのことを知ったに違いない。けれど、「詳しい知識のない若者」を最後まで「演じて」しまったかのように見えてならなかった。これはどちらかといえば演出の問題である。ここからはわたしの想像だが、監督はもしかすると彼女に「(がんについて)勉強はしないでほしい」と伝えたかもしれない。けれど、取材を通じて彼女はもっと知りたくなったはずだ。監督の目をぬすんで書店や図書館に立ちより、医学書の棚から何冊かの書物を手に取ったはずだ。そうして、この作品が仮に時系列の順に編集されているとして、映画が後半ともなれば、医療従事者やがん経験者に対して、相応の知識でもって、はじめはできなかった質問や頷きかたができたに違いなかった。


このようなことを書いたのは、ひとえにわたしの想像によるばかりではない。『子宮に沈める』(2013)という劇映画のパンフレットに向けて取材をしていたさい、主演の伊澤恵美子さんが、緒方貴臣監督からまさしく「勉強をしないでほしい」といわれたのだと語ってくれたことがあった。『子宮に沈める』は「大阪二児放置死事件」に材を得ており、「母性」という神話を解体することがひとつのモチーフになっている。緒方監督からすれば、なるべく先入観にとらわれずに、ただ主人公である母親を演じてほしい、という思いだったわけだけれど、育児経験のない伊澤さんは本を読むなどしないではいられなかった。結果として、彼女の思いがこの映画をすぐれたものにした、とわたしは思う。


こうした話は、とりわけ社会性のつよい作品においては、きっとよくあることだろう。ドキュメンタリーにおけるナビゲーターという、どちらかといえば特殊な役割を作品に配置するにあたって、彼女がどのようにふるまえばよいかはむずかしいところではある。


『がんになる前に知っておくこと』の監督の三宅流は、実験映画からドキュメンタリーにキャリアを転じた第一作である『面打』(2009)から、『究竟の地』(2012)そして『踊る旅人』(2015)にいたるまで、ずっと人間の「身体」と「技芸」を記録してきた映画作家である。とりわけ『究竟の地ー岩崎鬼剣舞の一年』において、岩手県岩崎地区に長く取材をつづけたカメラは、盛大な盆踊りのシーンにおいて「身体の共同体/共同体の身体」とでも呼ぶべきものを画面に現出せしめた。あの場面はほんとうに印象に深い。


こうしたキャリアをもつ三宅監督であるならば、このたびの映画においては、がんについての知識がじょじょに鳴神さんに身体化されてゆく、その過程を記録することこそが、かれにもとめられていたことではなかったか、という思いもするのである。



<2019/2/16更新>

文中、二行だけ加筆しました。



がんになる前に知っておくこと


監督・撮影・編集:三宅流

企画・プロデューサー:上原拓治

ナビゲーター:鳴神綾香

製作・配給:株式会社上原商店 制作協力:究竟フィルム

配給協力:リガード

2018年/日本/108分/ドキュメンタリー


2019年2月2日公開

http://ganninarumaeni.com/


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