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  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

[寄稿]ユリイカ 2018年9月号 特集 濱口竜介

更新日:2019年2月16日


もし「ユリイカ」誌が「特集・富士そば」を組むことがあったら、巻末の全メニュー解説を書きたい、と仲間うちで呆けたことを話していたことがある。


昨夏に「ユリイカ」の編集部よりご連絡をいただいたとき、「もしや富士そば特集」か!? などとはもちろんひとつも思わなかった。


特集は『寝ても覚めても』の公開を控えていた濱口竜介監督についてのもの。わたしは「椅子について」という題で6000字ほどの論考を書きました。まだ調子の万全でない7月に執筆のご依頼をいただいて、正直書けるかどうか自信がなく、お断りすることも考えていたのですが、やっぱり書きたい、書いてみたいと思ってお引き受けをしました。


ひとつの原稿を仕上げるのに、これほど苦労したことはなかったと思う。兎にも角にも『PASSION』が収録されたDVDと『ハッピーアワー』のBlu-rayを買いもとめ、ソフト化されていないものは編集部にお願いをしていくつか再見し、『寝ても覚めても』の試写へ駆けつけた。見るたびに感嘆し、絶望する。何も書けない、と思う。


ああでもないこうでもないと覚え書き(filmについてのmemo!)を書き散らし、けっきょくは手先のレトリックだけで済ませたような文章に成り果てた。見本が送られてはきたものの、手はつけられない。自分の原稿を読むのがこんなにもこわいと思ったのもはじめてだった。


で、最近になってようやく自分の書いた濱口竜介試論「椅子について」を読んだ。


わるくなかった。自分でいうほど阿呆らしいこともないが、書きあがった原稿というのはすでに他者の領域である。たしかにレトリックの産物ではある。しかも蓮實重彦氏の文章の影響が如実にある。しかし、わたしの書いたもののなかでは、もっとも文体的に成功した原稿だといえる気がする。


個人のブログなのでえらそうなことを書くと、わたしは現在の日本語の批評において、「文体」が軽視されているような印象を禁じえない。蓮實重彦氏以降、日本の映画批評はあれほどの文体家をもつことがなかった、という意味のことをTwitterに書いたこともあるけれど、いまもそう思っている。


小林秀雄は、「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎな

い、修辞学の問題に過ぎないのだ」(「Xへの手紙」)と書いている。わたしはそのことをこのところずっと考えている。


というわけで、濱口映画の「椅子」について書きました。三浦哲哉さんのあの感動的な『ハッピーアワー論』(羽鳥書店)の表紙にも一脚の椅子が置かれていたことをあらためて発見したのは、原稿を送ってからすぐのことでした。


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