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  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

『幽霊が乗るタクシー』は、記録よりも再現を選んだドキュメンタリー演劇である。

更新日:2019年2月20日


太田信吾さんよりこのたびの公演のご案内をいただいたとき、じつは少々おどろいた。たしか山形国際ドキュメンタリー映画祭(それも4年前の)だったと思うが、その折に一度お会いしただけだったからである。わたしはそこで、かれの監督作である『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を見た。


作者の友人であるミュージシャン増田壮太がうつを患い、自死してしまう、その前後の時間を描いたこのドキュメンタリーは、不器用で、だからこそ切実な映画だった。これを作品にしなければ次に進めないんだ、という作者の死にものぐるいの思いが感じられた。


それは、亡くなってしまった友人への、ほんとうの意味での追悼である。「追悼」という行為は、亡くなったひとを想いつづける営みであるというよりは、「かれはもういない」という事実を受けとめて、はっきりと決別することではないだろうか。


自分の内側にあるものを、作品として外に出すこと。おおやけのものとすること。そうして太田信吾は友人と決別している。だからこそ、「特別な時間」は「終わり」をむかえたのである。それは「終わってしまった」のではなく、あくまで作者がきっぱりと選びとったことだ。

 


太田さんが主宰する「ハイドロブラスト」の第一回公演である『幽霊が乗るタクシー』においても、作品を支配しているのはひとまず「死」である。震災後の東北・石巻への旅を通じてドイツで完成されたこの劇は、あの日の災厄で亡くなった人たちへ想いを馳せる想像力の営みを、作品化している。


『幽霊が乗るタクシー』は、まず「幽霊」という現象の辞書的な定義を確認することから始まる。作中で参照されていた字引が何だったかは記憶にないのだが、ともかく「現世に未練を遺して死んだ人たちが化けて出てくること」くらいの意味である。古来、幽霊譚は枚挙にいとまがない。わたしは霊現象をどちらかといえば信じているほうだが、「信じている」という言いかたもどうもしっくり来なくて、「あってもおかしくない」という感じである。ちなみに実際に遭遇したことはない。宇宙人もいてもおかしくはないと思っているが、やっぱり会ったことはない。気づいていないだけかもしれないけれど。


今回の作品の核になっているのは、震災後の被災地において、霊現象がたびたび確認されているという事実である。これはわたしも知らなかった。被災地で撮られたドキュメンタリーをかなり見てきたが、「幽霊の話」は聞いたことがない。けれど、今度の作品でそのことを聞かされて、どこかほっとする思いがなぜかした。あるべきものがちゃんとあった、という感じがした。

 


作品のタイトルにそっけなく表現されているのは、あるタクシー運転手が「乗せた」幽霊の話である。人気のない夜の通りを走っていると、傍らで女性が手をあげている。不審に思いつつも、手をあげている以上は乗せなければならない。ーーで、ここからは観劇した「わたしの」記憶があやふやなのだが(すみません)、車を止めたら女性はいない。運転手はそのとき、さっきの女性は津波にさらわれたよく知っている娘さんだったかもしれない、とはたと思う。そうしてドアを開けて幽霊を乗せ、彼女の家の前で降ろしてあげた、という。


奇譚である。とても美しい話だと思う。怪談話、または怪談映画は、いつのころからか「怖さ」ばかりを競うようになってしまった。けれど、ほんとうは美しい話であるはずだった。このタクシー運転手の話は、そうしたほんらいの意味での「怪談」であると思う。そして太田信吾は、この話に演劇者としての感性をくすぐられている。いや、えぐられている。


『幽霊が乗るタクシー』は、映画作家、また俳優として活動してきたかれにとって、初めての演出作品になるという。この作品は、俳優たちとともに宮城県石巻市で取材した映像を織りこみながら、それぞれに独立した三つの話から成る舞台劇として構成されている。


ここでかれは、明らかに「映像では描けないもの」に接近しようとしている。たとえば霊現象が報告された場所へ駆けつけて、幽霊があらわれるのを暗視カメラなどをかまえて待つ、などということには微塵も関心をしめさない。そうではなく、むしろかれの興味は「幽霊を見てしまう人たち」、または「幽霊を見てしまう心性」のほうにある。


けれど、これならあるいはカメラでも撮れるかもしれない。なにしろ「見てしまう人たち」は現に目の前にいて、幽霊についてありありと語ってくれるからだ。じっさい、そうした映像も劇中に採用されている。しかし、この作品はあくまでその話を舞台上の俳優によって演じさせる。太田信吾はここで「記録」ではなく、「再現」を選んだ。

 


その選択は、ふたつ目に描かれる挿話において、いっそう明白となる。震災後に不審死を遂げた僧侶のその妻と、二十歳になる知的障碍をもつ息子の話である。その日、かれの成人式の日のようすを、スタッフたちは撮影していたという。しかし、その映像はひとつも使われていない。代わりにここでも俳優によって母と息子が演じられる。


健常者が知的障碍者を演じるという行為に、わたしはどきりとした。そして、どきりとしたかぎりにおいて、自分の内側に差別心があることを認めさせられたような気がした。成人式の晴れの日に、かれは好き放題に身をよじらせている。スタッフはその動きがおもしろくて、かれに同調するようにあわせて身体をよじらせる。そうして舞台上にダンスが現前する。このシーンに、わたしは思わず息を呑んだ。生きている。人間が生きている。


映像が目の前の現在を記録し、フレームのなかに凍結する装置だとするなら、演劇とは俳優がだれかを演じることによって、いまここに、ありありとそのだれかを現前させる装置である。太田信吾が後者を選ぶとき、石巻で採取されたいくつかの奇譚や挿話は、わたしたちの前で俳優によって生きられていた。ここには、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』にあった追悼=決別の身ぶりはない。

 


霊的なものは、人間的、それもあまりに人間的なものである。未練をもつのは死者であるよりは生者のほうである。娘が毎朝起きていた時間に目覚まし時計がときおり勝手に鳴ってしまう、その奇怪な現象を、亡くなった娘からの便りと思って待ちわびている母親がいる。最後に描かれるのは、このような話である。


わたしたちはたまたま生まれてきて、たまたま生きているだけである。でも、死んでしまうよりは、生きていたほうがいい。たぶんずっといい。宮本輝の『錦繍』という小説に、次のような一節がある。『幽霊が乗るタクシー』という演劇を見て、わたしはそれを思いだしていた。


ーー生きていることと、死んでいることは、もしかしたら同じことかもしれへん。



 


幽霊が乗るタクシー


作・演出・出演 太田信吾

出演 森準人、昇良樹、あゆ子、小宮一葉

於 トーキョーアーツアンドスペース本郷

2019年2月9日〜2月11日


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