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怜玢
  • 執筆者の写真萩野亮 / hagino ryo

『うたれおないからただしねない』は、重力に぀いおの挔劇である。

曎新日2019幎2月17日


本倚劇堎ぞ。䞋北沢は久しぶりに来たけれど、駅構内、およびその呚蟺が倧きく様倉わりしおいおおどろいた。ずいうか迷った。どうなっおんの。


舞台を芋るのはほんずうに久しぶりである。いたはもうたったくタッチしおいないのだけれど、わたしが2012幎にドキュメンタリヌカルチャヌマガゞン「neoneo」ずそのりェブ版を立ちあげたずき、「舞台芞術」はひず぀の重芁なカテゎリだった。


A5版の文芞誌サむズになった珟「neoneo」は映画ずテレビしかあ぀かっおいないけれど、わたしの構想はあくたで舞台、写真、矎術、あるいは広告などもふくめた「蚘録文化」「ドキュメンタリヌ・カルチャヌ」の暪断的な蚀説の堎所を぀くるこずだった。


こころざしもなかばに、けれどわたしは病気で斃れおしたった。情けないこずに、線集実務がたったく性に合っおいなかったのである。線集郚のメンバヌにはほんずうに迷惑ばかりをかけおしたった。圓初のわたしのもくろみからは少しばかりずれおしたったけれど、いたも雑誌を出し぀づけ、さらに昚幎末には「東京ドキュメンタリヌ映画祭」ずいう祭兞たで開催したのだから、ほんずうにかれらの胆力には頭がさがるちなみに䞻芁メンバヌ以倖は随時亀代しおいる。


だから、蚘録衚珟ず蚘録文化ぞの暪断的な考察は、わたし個人の仕事になった。䜓調を厩しおばかりいお、舞台どころか映画すらろくに芋おいなかったので、ただなにひず぀かたちになっおいないけれど、もう䞀床いちからはじめおみたい。

 


範宙遊泳の芝居ははじめお芋た。『うたれおないからただしねない』は、2014幎初挔。なるほどこういう感じか。舞台の背景はほが党面がスクリヌンになっおおり、そこに間断なく映像が投圱される。いわば曞き割りのプロゞェクション・マッピングである。音楜はあるが、音響はほがなく、代わりに雚が降る「ザアザア」ずいう音などがスクリヌンに「文字」ずしお投射される。傘やレむンコヌトにも雚粒が「文字」ずしお付着しおおり、それを剥がす堎面が可笑しかった。


ずころで蓮寊重圊は、『映画 誘惑の゚クリチュヌル』においお、「虚構は、それぞれの時代にふさわしい蚱容床を持っおいる」ちくた文庫、116頁ず述べおいるが、䞀般的にいっお挔劇は映画よりもいっそうその「蚱容床」が高い衚珟圢匏であるずいっおよいず思う。映画をこき䞋ろすさいにしばしば甚いられる「リアリティがない」ずいう垞套句は、映画ずいうメディアが写実的写真的リアリズムにもずづいおいるずいう䞀点におもに根ざしおいるわけだが、舞台においおははたしおそうではない。舞台䞊ではなにが起きおもふしぎではない。䞀人二圹などはあたりたえだし、そこにモノがなくおもあるこずにできる。性懲りもなく映画ばかりを芋おいる身ずしおは、そこに舞台衚珟の圧倒的な自由フィクションの蚱容床を感じずにはいられない。そしお、自由であるずいうこずは、同時に䞍自由でもある。


この䜜品における文字蚘号ず、からだの関係は興味ぶかい。たずえば「2階の䜏人」である銀粉蝶扮する婊人は舞台䞊に実圚するが、圌女の老霢の父芪は「文字」ずしおスクリヌン䞊にしか存圚しない「父」ず曞かれおいる。『うたれおないからただしねない』の䞖界における「老人」たちは、やがおぷかぷかず遊泳しはじめお、スクリヌンからも消えおゆく。雚音も灜厄も心理状態も、あらゆるものが蚘号化しおいる䞖界それはわたしたちが䜏たう珟実瀟䌚のあっけらかんずした喩であるのなかで、舞台䞊のかれらだけはひずたず「からだ」をもっおいるもちろん身䜓ずその所䜜も蚘号ではあるが、ここではあくたで狭矩の蚘号を指しおおく。やがおかれらもたた死んでゆくが、それはちゃんず亡骞のある遺䜓である。

 


『うたれおないからただしねない』においお、リアリズムの問題は重芁である。3月11日の地震ず接波を想起させずにはおかない厄灜を、りォヌホルのシルクスクリヌンのようなポップな色調で描くこの䜜品は、あらゆるものをスクリヌン䞊にフラットに戯画化する。けれども終盀、スクリヌン䞊にあらわれる戊車だけはあくたでリアルに描かれる。そこから珟に客垭に向かっお䌞びおくる倧砲は、ひどくこわかった。


この皮類の「こわさ」はなかなか経隓したこずがない。舞台スクリヌン、䞉次元二次元、圚るこずないこず、フィゞカルメタフィゞカル、ずいう二元論にもずづくこの䜜品のフィクション構造の、文字通りの裂け目ずしお、戊車の倧砲はこちらぞ向けお䌞びおきた。それは、䞖界の秩序を砎壊する暎力ずしお、舞台䞊に圚った。


たいはんの舞台装眮を映像で衚珟し、たいはんの音響を文字においお衚珟するこの䜜品においお、珟前するモノずしおあらわれた戊車の倧砲ず察応するのは、「うたれる」こずのできなかった子どもをあらわす結末の「颚船」だろう。倧砲のいかにも硬質な物質性ず盎線性に察し、たるみを垯びた颚船の存圚の耐えられない軜さは、いかにもはかなく、客垭の䞭空ぞず舞っおいった。


倧砲の重さず颚船の軜さのあいだに、そしお俳優たちひずりひずりの䜓重がたしかにあった。それは、脚が動かなくなった女をたえず背におんぶする男が感じおいた䜓重においお、もっずも盎接的に描かれおいる。女を背におぶった男が、圌女を萜ずすたいずしきりに姿勢を敎えなおすずいう䜕気ない仕草こそが、この䜜品においおもっずも具䜓的で信頌できる身ぶりずなる。老人たちがふわふわず浮かんでゆくなか、かれらは぀いに息絶え、舞台の䞊に䌏せる。この䞖界には重力がただある。「ゎキブリ」だけが生き残れたのは、その生呜力や繁殖力によるばかりではなく、かれが「空を飛ぶ」こずができたからであり、この䞖界の重力に察しお比范的自由にふるたうこずができたからである。

 


雚は、あのような文字ずしお降りそそぎはしない。あの日の灜厄は、あのようなポップな色で圩られおはいない。それでもなおこの䜜品を、客垭のだれもが真摯に受けずめただろうず思う。いかにもベタないいかただけど、珟実に起こる想像を絶するできごずは、わたしたちの「リアル」の範疇をずうに超えおしたった。すべおはアンリアルであり、なおか぀リアルである。その事実を受けずめなければならない。そうした分裂した情況をこの䜜品は忠実に、真面目に、描いおいる。だから舞台䞊のかれらの死は、痛たしかった。


正盎にいうず、圓初芋たずきは、少々保守的な䜜品だず思った右・巊の意味ではない。「灜害ナヌトピア」レベッカ・゜ルニット的なお話をわりず堅実にやっおいお、もっず荒唐無皜なこずが起きるず勝手に期埅しおいたせいか、そこがすこしものたりない感じがしたのだった。けれど、こうしお曞きながら反芻しおみるず、䜜品の切実さが劙に胞にわだかたっおいる。それはきっず、この䜜品が培底的に描いおいた「重力」によるものに間違いなかった。


 


うたれおないからただしねない


䜜・挔出山本卓卓

出挔熊川ふみ、埜本幞良、犏原冠、皲継矎保、野口卓磚、束本亮、山厎皓叞、山田由梚、油井文寧、銀粉蝶

斌本倚劇堎

2019幎1月31日〜2月3日


#範宙遊泳 #neoneo #レベッカ・゜ルニット

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